痩せますか死にますか

自分を客観視するために書く。昔のこととかADHDの子供との生活のこととか。

壊れました。

私が壊れてしまい入院してしまいました。

子供は実家に育ててもらい私は治療に専念することになりました。

メンタル的なものです。


世が世なら・・・発達障害「ADHD」は狩猟採集社会では優位性を持っていた。現代でも適した職業や場所が見つかれば特性を強みに変えられる可能性(米研究) : カラパイア

 

電車で一時間圏内の実家との距離だったのでどうにかなりました。

実家がどうにかしてくれています。

 

私が倒れたとき、実家には連絡できませんでした。私の意思でしませんでした。

そのために子供は一月ほど児童養護施設で生活をすることになったのです。

親失格だと思いました。

閉鎖病棟で電話をすることもままならず、インターネットからもタバコからも遠ざかっていました。

2ヶ月強の強制入院でした。

 

シングルでも頑張ってる人は居るよね、とある人は退院した私に言いました。

育ちが違うから理解されないしして欲しくもないと思いました。

その人はお金持ちで貧困を知らない故、メンタルを病むということを知らないのだから仕方がない、と。

その人は私にこうも言いました。

子供に対して無責任過ぎるよね、とも。

 

・・・人種としての大きな隔たりを感じざる得ませんでした・・・。

私はその人に「消えて下さい」と最後の言葉を残して通話は終わりました。

人間関係の整理をしました。

 

今朝方、母親から電話がありました。

子供が学校に出かけたから、電話をしたよ、と。

「僕のことをママは心配なんかしていないんじゃないかな」

そういう気持ちでいるんだよ、と母は電話で教えてくれました。

 

だから今日、電話で数ヶ月ぶりに話して子供に謝ろうと思います。

頑張りながら勉強しているよ、薬で押さえつける必要なんてないと思う、と聞いて前述の記事を思い出したのでリンクを貼りました。

 

もう少し強さが欲しかったです。

在籍校への不信感払拭はできるのか.1


問題行動は、学年が上がってから特に始まっていた。

教室にいられない息子。本当に一日中、教室にいようとしない。
というのを、ついこの間知った。
二学期ももう終わろうとしている、この期間にだ。
担任は、事の詳細仔細を話さずトラブルがあった(他害など)場合だけに連絡をしてきていた。

その時にいつも、どうすればいいですか、ということを聞かれた。が、学校での様子が分からない私に何が言えようと言うのだろうか。
とりあえず当事者である子供は加害者ではあるけれどパニックになっているから、他の子供とは離してください。
注意をする場合は大人だけがしてください。
ただこの2点を言い続ける他、なかった。

通級に通う点で私が躁転したことにより問題が浮上。金銭面だ。

通級に通うにも公共機関に乗り、乗り継ぎもあり子供の移動代+付き添いは必須なので大人の移動代もかかる。
前のエントリーでもカミングアウトしたが私自身が傍目には落ち着いていてもメンヘラなこともあり子供のADHDもあり福祉で生活をしている。
(少しは仕事をしているが、何事も子供の対応を優先させているのでロクに働くことは今のところかなっていない)

通級の間は待つ場所がなかった。
校内で待てないのだ。学校付近には待つ場所もない。学校併設の図書館は閉まっている曜日なので通級学校からの最寄駅までとぼとぼ歩いては散財してしまう。生活用品や100円均一を買う。そうして時間を潰していた。


きっかけは、私が躁転したことだった。

ある日私に、PZCというメジャートランキライザーが処方される。
見事に、躁転した。クレジットの明細は、恐ろしくて見たくなかった。見たけど。
当たり前だが金銭的に行き詰まる。

ナマポなんだから、質素に暮らせ、とはネット民は言うだろう。
質素に暮らしてきた。それなりに。そう見えないように繕ってはいたけれど。
その中で躁転する事で金銭感覚が狂ってしまい、私は精神的に追い込まれて、教育相談所に電話をした。

WISCの結果を見て必要があるから通級に通っていて、こんなに金銭的に負担になりその間は当たり前だけど仕事もできない、いくら福祉で生活していても生活に変化があれば(この場合、躁転)破綻するのは目に見えている、もう耐えられない、どうしたらいい?!

その上の指導官、的立場の人と相談する機会を与えられた。


そう、子供が通級に通う間にがなり立てる勢いで問い詰めた。
そうして、上に繋いでもらい、改めて学校との連携などについて相談する場を設けてもらった。
固有名詞を出すと所在地があらわになりそうなので避けるけれど、いわゆる教育委員会で学校に対して指導する立場の人と話をすることになった。

それが、秋口の話。
前回のエントリーで学校への怒りを諌められたのは春先の話。

私は勉強は、していた。
可能な範囲で、自分が擦り切れない程度ではあるけれど。

ビジョントレーニングは浦安と遠方なので通うこととなる事を考えたら金銭面で無理なので諦めた。
そろそろWISCをもう一度受ける時期になったので改めて子供に受けてもらう予定だ。

スモールステップ、ペアレントトレーニング、体幹のための自転車の特訓、実家との連携、通級指導担当とのやり取り。食事指導。

色々話した。
それは、学校の対応に問題があるように思います。お母様は、精一杯やられています。
私たちから動いてもよろしいですか?

私は即答した。
お願いします、と。

そうしてまずは、在籍校での子供の様子を、指導官の方に視察してもらうことになった。

生活保護受給者の私がWAISを受けてみた。

子供のフォローを最大限にしつつ自分でいかにして稼ぐか

それがここ一月の私の命題でした。

秋になると精神的にとても不安定になり、いわゆるボーダー、境界性パーソナリティ障害 - Wikipediaが顕著に表れるようになります。

子供を引き取ってからはあまりそのような事はなかったのですが、実家のストレス新しい仕事のストレス、子供の対応、元々持っていた反復性鬱病(診断書にはそう記してあった)もあり、何がトリガーとなったのかは自分でも分かってはいますがとても親身に話を聞いてくれていた人に脱価値化(http://mora110.blog.fc2.com/blog-entry-23.html)を起こした結果、数年にわたる縁が切れました。切りました。

 

私は生活保護で生活をしています。

その中でも自分でできる仕事を見つけ、少しずつではありますが勤労はして収入申告をしています。

毎週の通級、各週のプレイセラピー、子供の通院、自分の通院、在籍校の担任の面談、通級学級での面談。

他害などのトラブルを起こせば謝罪に行ったり電話をしたり。

きっと頑張れる人は頑張れるのだと思います。支えてくれる友達や夫や仕事があるならば。

先日、学校への不信感に耐えきれず教育相談所に電話をしました。

その下りは、また後日詳しく書かせていただきます。

そして話は教育委員会へいき、校長や担任など学校関係者と私と教育委員会の方と面談をしました。

学校では、こうして過ごすルールを作ろう、という学校でのルール作りがやっとできました。

今は運用中で結果はまだ見えてはいません。

分かったのは、担任の相性の悪さ。

ADHDだと分かっているのに新任の教師を担任にした学校への不信感は確信に変りました。

在籍校は対策をほぼしておらず、学校の中で息子は居場所を見つけられずにいたということ。

困った子供として扱われ自己肯定感がひたすら下げられる半年間だったということが分かり、それを子供の病院の先生に報告しました。

「そう・・・」

とため息を付き、これから変るといいですね、と言って下さいました。

 

そこで冒頭の脱価値に話は戻るのですが。

元友人は色々と親身に話を聞いてはくれましたが専門家でもなく子供と数度あったことしかなく、主に私の話、愚痴を聞いていてくれていました。

春先頃に「担任がおかしいんだ!」と立腹したところを宥めたのがその元友人でした。

私は、怒りに任せてでも、もっと早急に動くべきであった自分と専門家でもないのにアドバイスや提案をする元友人をこき下ろしました。

あのとき友人が私を諫めたりしなければ、子供の半年はもっと充実していたはずだった。

そう思ってしまい、人の人生に首を突っ込みすぎるな、と言い放ちました。

そして元友人は私が生活保護者であることを盾に私を詰りました。

 

先駆者に話を聞くことしかやはり道はないこと、生活を共にしない人間とあまり関わりすぎないこと、季節の変わり目はぐっと堪えること。

 

そして私は先駆者である自他共に認めるアルペルガーの人に話を聞きました。

「まずはお前がちゃんとしろよ。アスペは金がかかるんだよ。何で稼ぐのが一番向いているのか確かめるためにWAIS検査を受けろ。」

ADHDにはアスペルガー要素が強い場合が多く、息子もそう。

IQはボチボチ高めなところがいつも裏目に出ているな、と接していて分かります。

そしてハマるととことんまで付き合わされるので、日々折り合いを付ける格闘をしているように感じていました。

子供との時間が取れて、自分ができる仕事はなんだろう・・・。

その結果が来月に出ます。

ちなみに私自身がADDの当事者です。

だから息子の困り感やハマり感なども嫌と言うほど分かってしまいます。

生活保護は必要な措置だと思いますが、その中でADHD+情緒障害の子供を育て、どう働き保護から脱して稼ぐことができるのか・・・。

メンタルの薬を飲みながらも、私は子供と共に寄り添い自分の財力で人生を走り抜けることができるように。

子供も私も自活できることが、自分の中のゴールで、更に実家もうまく機能することが最終ゴールです。

はてなブログの簡単なアクセス解析の話

息詰まってました。ちょっともうほんとパンクするかも知れないと思いました。

別の日記でつけていたものを少し考えてから一気に更新しました。 

機能不全家族のメンヘラ話 - 痩せますか死にますか

 

 

機能不全家族が機能するための希望 - 痩せますか死にますか

 

 

機能不全家族当事者から考えた未来について考えた - 痩せますか死にますか

 

その時気がついたんですが。

アクセス解析の検索ワードが見ることができるんですね。

 ADHD、通級、ビジョントレーニング、癇癪などなど。

ああ私が困ってることと同じ事で困ってる人はたくさんたくさんいるんだな、と。

タイトルの通り死にますか、と入っていますが自死はしませんが、それがふと頭をかすめることは多いです。

そんな気持ちでインターネットに向かって必至に検索しているんだな、と思うとそこで私は子供と二人でいるときの孤独感を共感できた気持ちになり、しんどいのは自分だけじゃないんだと被害者意識を薄らげることができました。

 

爆発してしまわないように、もう少しこまめに更新をしようと思います。

機能不全家族当事者から考えた未来について考えた

父の一時帰国と共に去った台風。

私の腰痛もなくなると共になんだかなーな体調も回復した。フィジカル面で。

 

どうにもならないときに限ってバタついてしまう私は帰国したであろうタイミングでサンキューメールを送る。

半日ほどで返信があった。

 

 

これからは逃げ腰にならずに真正面から取り組んで行きます。

お母さんのこと、よろしくお願いします。

 

 

と。締めの言葉にあった。

 

私は家族のダレにこれを伝えればいいのだろう。

ありがとうとごめんなさいの応酬を電話やメールやメッセージでやり取りする。

その意味が強まったり薄まったり、積年の思いがそのたびに頭を通り過ぎていく。

過去に向けての、「たら、れば」のコトばかりだけれど。

 

 

クリニックの費用についての概算やADDについての基本情報を提供とそれら母の治療に必要な経費の詳細を長々とメールで返した。

笑える話だけど、メールを送った後に低血糖になったのでファンタグレープを一気飲みした。

 

メール越しに父親が土下座しているような絵面が頭に浮かぶ。

一度だって叱られることはない父が、そうしているような何とも情けのない姿を感じた。

どうせだったら今まで通りクソ親父でいてくれよ、と罵倒できるものならしたい。

遅いよ、お父さん。と。

 

クソ親父と色々なことを思い出したとき心の中で、なじることでなんとか保ってきた何かが私がしたことで崩れた。

学費のこと幼少期の生活費のこと、それらの母の愚痴。酒を飲むとひっくり返されるちゃぶ台。

情けない泣くに泣けない表情で割れた食器と食材を片付ける母の姿。

・・・底にあるものが、脳の欠陥だと分かっても、それは息子の障害を受け入れていく時の気持ちと同じだった。

なぜ他の家は家族旅行に楽しげに行ったりしているのだろう。なぜ他の子は定型発達なんだろう。

一体どうしてこんなに上手くいかないんだろう。

 

止まって、悩み続け恨み続けて生活を破綻させ一家離散することと

互いに何かしらの気持ちを抱えて20年後に笑って暮らせる可能性に賭けることと。

 

楽なのは止めてしまうこと互いになじり合うことだろう。

関係をなかったことにしてしまうことだろう。

 

私は実家を一度捨てたけれど、また戻った。

そしてその責任を家族として負った。

けれど、それぞれが負っても足りない部分も見えてしまった。

予感に近いけれど確信のようなものでもある。

 

 

どんなに理性で分かっていても、堪えられない感情、そして脳の病気や精神病。

ひとつひとつをクリアすることはできるのだろうか。

 

やることは分かってる。全部分かってる。

私には遅いよ、お父さん。と言う権利はあるのだろうか。

その言葉にどんな意味があるのだろうか。

 

ただ願うのは20年後。

自分の居場所のようなもの、実家が機能し生きていること。

できることであれば笑っていられること。

 

今私が一番後悔しているのは、自分の子供にも更に色々と背負わせてしまったこと・・・だ。

私の願いは二分されていて、統合することが予測できない。

まだ気持ちの整理をつけることができないでいるままに今先へ進んでいる。