痩せますか死にますか

自分を客観視するために書く。昔のこととかADHDの子供との生活のこととか。

機能不全家族当事者から考えた未来について考えた

父の一時帰国と共に去った台風。

私の腰痛もなくなると共になんだかなーな体調も回復した。フィジカル面で。

 

どうにもならないときに限ってバタついてしまう私は帰国したであろうタイミングでサンキューメールを送る。

半日ほどで返信があった。

 

 

これからは逃げ腰にならずに真正面から取り組んで行きます。

お母さんのこと、よろしくお願いします。

 

 

と。締めの言葉にあった。

 

私は家族のダレにこれを伝えればいいのだろう。

ありがとうとごめんなさいの応酬を電話やメールやメッセージでやり取りする。

その意味が強まったり薄まったり、積年の思いがそのたびに頭を通り過ぎていく。

過去に向けての、「たら、れば」のコトばかりだけれど。

 

 

クリニックの費用についての概算やADDについての基本情報を提供とそれら母の治療に必要な経費の詳細を長々とメールで返した。

笑える話だけど、メールを送った後に低血糖になったのでファンタグレープを一気飲みした。

 

メール越しに父親が土下座しているような絵面が頭に浮かぶ。

一度だって叱られることはない父が、そうしているような何とも情けのない姿を感じた。

どうせだったら今まで通りクソ親父でいてくれよ、と罵倒できるものならしたい。

遅いよ、お父さん。と。

 

クソ親父と色々なことを思い出したとき心の中で、なじることでなんとか保ってきた何かが私がしたことで崩れた。

学費のこと幼少期の生活費のこと、それらの母の愚痴。酒を飲むとひっくり返されるちゃぶ台。

情けない泣くに泣けない表情で割れた食器と食材を片付ける母の姿。

・・・底にあるものが、脳の欠陥だと分かっても、それは息子の障害を受け入れていく時の気持ちと同じだった。

なぜ他の家は家族旅行に楽しげに行ったりしているのだろう。なぜ他の子は定型発達なんだろう。

一体どうしてこんなに上手くいかないんだろう。

 

止まって、悩み続け恨み続けて生活を破綻させ一家離散することと

互いに何かしらの気持ちを抱えて20年後に笑って暮らせる可能性に賭けることと。

 

楽なのは止めてしまうこと互いになじり合うことだろう。

関係をなかったことにしてしまうことだろう。

 

私は実家を一度捨てたけれど、また戻った。

そしてその責任を家族として負った。

けれど、それぞれが負っても足りない部分も見えてしまった。

予感に近いけれど確信のようなものでもある。

 

 

どんなに理性で分かっていても、堪えられない感情、そして脳の病気や精神病。

ひとつひとつをクリアすることはできるのだろうか。

 

やることは分かってる。全部分かってる。

私には遅いよ、お父さん。と言う権利はあるのだろうか。

その言葉にどんな意味があるのだろうか。

 

ただ願うのは20年後。

自分の居場所のようなもの、実家が機能し生きていること。

できることであれば笑っていられること。

 

今私が一番後悔しているのは、自分の子供にも更に色々と背負わせてしまったこと・・・だ。

私の願いは二分されていて、統合することが予測できない。

まだ気持ちの整理をつけることができないでいるままに今先へ進んでいる。