痩せますか死にますか

自分を客観視するために書く。昔のこととかADHDの子供との生活のこととか。

幸せに向かう力

いつからか、幸せとはどこからかある日突然降ってくるものだと思っていた。

ということに気がついた。

いいことないかな、いいことないかな…と。


家族とあまりうまくやっていけない。

自分が生まれて物心がついた頃からずっと「うまくいかない」とどこかで感じていて、そのうち衝突することも放棄していた。

結婚をして子供が生まれて、離婚をして子供と暮らしていてもやっぱりうまくいっているな、なんていくらも思えない。

ガミガミ言うのはどんな漫画やらを見ていても仕方のない事なのだろうなぁとは思う。

母親とは口うるさくてうっとおしいものだ。

が、ガミガミ…いやいちいちきちんと注意するのも疲れるのだ。

やれ風呂に入れ服は脱ぎ散らかすな寝る前は歯を磨け宿題はきちんとやれなどなど。


注意するたびに、小さい頃の自分が思い出されてイライラするのだ。

自分はきちんとできたのに、なぜできないのか。と。


忘れちゃうんだよねーと、事もなげに言う。

カラッとしているのはいい。

カラッとしつつ言われたら応えてくれたらいい。が子供といえど別人格の別人、つまり他人だ。言うことなんか聞くはずもない。


当たり前のことを当たり前にやらないくせに憎まれ口や罵り口上は大人以上なのだ。

大体いつも、面倒になると

「いいよ、そしたら自殺するから」

とも言う。

ちなみに、低学年だ…。

言葉の選び方の貧困さや相手への伝わり方への思慮は子供だからということを汲んでも許容できるものではない。

既にめんどくさいメンヘラな一面が構成されつつあるな、と認識するしかない。

面倒になると相手が黙る一言をどこかで学んでしまったのだろう。こっちだってそんな狂言に付き合ってかまってやるのはいくら子供といえど…というか子供だからこそゴメンだ。

正直な気持ちでいえば面倒なことなくすくすく真っ直ぐ育って欲しいと誰だって思っているだろうしそう思い込んで人様にすごむような人だっている。

子育ての、子供の精神面について考えサポートしようと思ったらめんどくさいに決まっている。

でもやらなくてはならないのだ。何かしらの形で。とてもめんどくさい。

けれどここできちんとしないと、後々に「めんどくさい」だけでは済まなくなるのだ。


子供はADHDというやつだ。

最近になって、言葉を文字通りにしか捉えられないアスペルガーの傾向も少し強く出てきたように感じる。

情緒の成長が遅い、言葉の裏を読めない、過集中(のめり込み)、課題に手をつけられない、こだわりを人に押し付ける(うちの場合はゲームの勝ち負け)、漢字の読み書きができない、などなど。

自分のしたことの結果を受け入れない、というものもある。


書いてて、凹んできたからマイナス面ばかり挙げるのはそろそろ辞める。

IQには支障なく数字の概念はよいらしい。

ケアレスミスは当然のように目立つが。

言葉のフレーズを覚えることも抜群で、だからこそ大人がギョッとするような言い回しで人をなじったりすることもある。

深く言葉の意味などを探り適切に使うことは難しいが言葉としては使えてしまう。

これは、凶器を振り回しているようなものだ。

相手を単にやり込めよう、自分に都合の良い様に運ぶようにしようという、相手の気持ちや立場を慮ることのないある意味子供らしく思慮の浅い考えのもと刃物をブンブン振り回しているのである。ブンブン振り回せばうるさく言われることもなく自分の要求を通せると分かっていてやっていることもあれば、ただ無自覚にブンブンやる時もある。


最近というか、毎日そんな感じなので私自身ははぼんやりしていることが多い。

何か目的を持ってやりとげようとする気力はどこにも残らない。

そんな凶器をいつブンブン振り回し始めるか分かったもんじゃない中でも子供は可愛い。子供全般はそこまで好きではないのでやはり自分の子供は特別だな、と思う。

凶器をブンブン振り回しているとき、それは人を傷つけるんだよ、ということを言うと気がつくことも出てきた。それはそれは、悲しそうなとてもショックを受けた。という顔をして、言葉を詰まらせる。

本当に、自覚がないままに凶器を振り回しているんだなぁ、と少し可哀想になる。

言葉を振りかざす子供は、よく事もなげにごめんなさいと連呼する。ごめんなさいという気持ち、謝罪の気持ちというよりも、はやく怒りを収めてくれ、というニュアンスで使っている。もうこれ以上お小言は聞きたくないよ、という具合に。

そんな言葉よりも、しまった!というだんまりの方がこちらとしては、ああわかってくれたんだな、と安堵する気持ちになる。


言葉は万能ではないのだ。



こんな毎日の中、私はいつかとんでもなく幸せがある日突然やってくるのではないかとどこかで思い込んでいた。

ゴールのくるその日を怠惰な気持ちで待っていた。

そんなものは誰もよこしてはくれないのだ、ということに改めて気がついた。

誰をなじっても誰のせいにしても何か自分に都合のよいものが降ってくることはない。

幸せを望むことで幸せに向かう力を自ら放棄していたのだな、と思った。

幸せに向かうことは簡単なように見えて難しいと感じる。

モノやお金と違って目には見えない、でも確実に存在する認識でゆるぎやすい。

ある種の勇気みたいなものかも知れない。

要は努力や我慢なのだと思う。報われる報われないは誰にも分からないけれど。