リワークプログラムデイケアには一度も通うことはなかった。
できることなら働きたい。外に出て。
できることならば何か生み出したい。
いつもそんな気持ちでいたけれど世の中そう簡単ではなくて生きづらい。
それに気がついて諦めたように息をしているのは多分ただの弱さだと思う。
地道に生きてるのに無名ビンボーな人たち相手に一発逆転の夢を買わせるうす汚い商売、という点で自己啓発書とギャンブルは同じ。
— 大原ケイ (@Lingualina) 2014, 7月 19
人にかなわない夢を見させるのは弱さにつけ込むずいぶんイイ商売してるよなぁとは思うんだけど、地道に暮らしててかつ、弱っているときには自己啓発本にフラフラと惹かれてしまう。
このツイートを見て、「あ、そういうの私だけじゃないんだなぁ」って少し安心したりした。
子供と離れ一人暮らしをしているときに人間関係も仕事もうまく行かず躓いてしまった。
人や実家を頼ることなく一人でもがけばもがくほど溺れていく、なんて今だから客観視できるけれど、まぁ狂ってました。
狂ったなりに調べたり泣いたりわめいたりして、結局デイケアに通って社会復帰しよう、なんて決めた。
けれどね、デイケアのリワークプログラムに参加してる人が男性だけ、というのを聞いて怖じ気づいてしまった。
メンヘラ男は性欲と依存心だけでできていて理性がない、あってもどこかで必ずキレてくる、というのを身をもって体感していたのでいくらデイケアのリワークプログラムと言えどもそんな素養が大いにある男だらけの環境に毎日通うだなんて想像するだけで気が滅入るわ恐ろしくなるわで結局一度も通うことなく通院するのもやめてしまった。
その時の事を詳細に語るとこういう状況だった。
いざデイケアに通う日になって、起きることはできたもののどうやっても足が動かない。開始時間が過ぎた頃に病院から電話が入る。まさか男性がそんなに多いのは、ムリです、と言うこともできず「今日は行けません」と伝え電話を切った。
また別の日には病院の最寄り駅まで行ったもののどうやっても足が病院へ向かない。
そのうち病院からの電話を取ることもできなくなり別の病院に薬だけでも、的な通院すらしなくなった。
行けなかった理由は今でこそ分かるものの、こんなにも「男はイヤだ」と抵抗する気持ちがあったことに当時はハッキリと自覚することも対策をすることもできなかった。
離婚してからというもの人間不信になっているようでそれは大分薄らいだものの今も続いているように思える。
信じたい、という気持ちが強すぎることがきっと発端なのだと最近は分かってきた。
信じないことはまるで生きることすら価値のないようなものだと毎晩責め立てられてきたことーー母親にされてきたことーーが未だに許せていないのだと気がつかされる。
情緒の発達の遅いまだまだ甘えん坊な子供を心底可愛いと思う反面、子供のことすら信用することができないだなんて、子供っぽいを通り越してなんて哀れで惨めなんだろう。そう落ち込んでいる間だって子供の成長は待ってはくれない。そしてそんな親の私を見て子供は成長し学んでいく。
自分の気持ちのもつれを解きほぐす作業は悲しいことと恥ずかしいことばかりだ。
そのまま乗り越えるスピードやパワーは例えば1冊本を読んだくらいで身につくものではなくて、分かった気になるのがきっと一番遠回りになる。分かったふりをしてまだ何かに甘えようとしているだけだから、何事もゆっくり考える気持ちの余裕が必要だと分かってきた。
即席即解決を求める自分の気持ちを満たそうとするだけの見栄とか意地がない方がきっと振り返ったときに「よかったな」と思えるんじゃないかと信じられそうな気持ちになってきたし、だからこそムリをしないで頑張れる環境ーー単に物質的に多いとかそういうものではなくて心地いいなと思える生活ーーを自分で悩みながら整えていくことが成長できる可能性なのだと思う。
私は、自分の母親は自らを大事にして生きているようには思えなかったし、今も思えない。
人を大事にできる人はただ依存させたり依存されたりすることとは違う。自分の気持ちをないがしろにして物質的なもの、お金に依存することももちろん違う。生きるためにはもちろんお金は必要だけれど、買い切れないほどの食材を買い込んで腐らせるためだったり、人に恩を着せるために使ったりするようなお金を生むために時間を浪費するのは、結局自分を大事にしていないことになるんじゃないだろうか。
自己啓発本が教えている結果だけを追い求める「走りながら考える」。それができるのは理想だけどそれを実現できる人なんてほんの一握りの、まさに選ばれたような人だけなのかな、とかちょっと思ったしきっとそうなんだと思う。
ゆっくり足下から、自分で整えていこう。