痩せますか死にますか

自分を客観視するために書く。昔のこととかADHDの子供との生活のこととか。

言葉と自分の反省

子供の言葉に傷ついて怒りが沸いてしまう自分の弱さ

子供って残酷なもので、テレビのドラマや漫画で覚えた言葉を意味をよく知らずにブンブンと使う。

それはもう刃物を振り回すかのごとく振り回す。

けれど少し冷静になれば分かることだった。

些細な言葉だけれども、寄る辺のない私はつい自分勝手に傷ついては子供を責めたりしてしまう。

親として受け止める、それが例え刺さり心が揺れることであってもそれが私に向けられた言葉であるならばきちんと受け止めるべきでもある。子供はなにも、空気や壁に向かって話しているわけではないんだ。

受け止めた上で、その意味を感情を抑えて問う、そういうコミュニケーションを重ねていけるよう、困ったときは相応の機関に相談をし親としての自覚をもっと強めていかなければいけないと思った。

 親としての度量を育てる意識がないままに何を叱ろうと、絶対に届くことはないだろう。

少し自分の反省と半生の話を。

人と子供についての悩みの話をする中で、やっぱり私は全然大人になりきれていないなぁと笑われる。

子供が何の気なしに発するトゲのある言葉にイチイチかっとなりいらっとなったりする。

予想通りの反応をしてくれないと、子供とそろって駄々をこねているだけなのだ。

自分の幼さと身勝手さから来る怒りを自覚し恥ずかしい気持ちになった。

落ち込んだり悩んだりする姿は子供は敏感に察知する。興味が、自分以外に向いていることにももちろんだ。

この間寝ぼけた子供に「ママ、消えてよぉ・・・」と言われた。

ただの甘えん坊なんだと分かってはいても、一瞬止まってしまう。相手は子供だ。しかも寝ぼけている。寝ぼけているからこそ、一体私が何をしたんだろう?と思い悩み、その晩は子供に詰問してしまった。

「私はいま怒っているのだけど、それは君に言われたことで傷ついたからなんだけど、わかるかな」

本来、注意するときーーADHDなど短期記憶がものすごく弱い子供の場合は特にーーその場で注意をしないと意味がない。本人にとっては寝ぼけていて、ほぼ無意識で発してしまった言葉なのだから余計にワケが分からなくなっただろう。

子供からしてみれば、ママが怒っている、だから覚えているフリをする。反省してあやまる。

反省の態度ではないと私はまたクドクドと説教をする。

 

自分が、母親にされてきて一番嫌だったことを子供に繰り返していた。

この「ママ、消えてよ」の発言について私は外でその言葉を出していたりしないだろうか、という不安があった。

私が言われるならいいけれど、外で言ってしまっていたら・・・。そんな不安に捕らわれてしまい子供を責め立ててしまった。

恐らく私の母親も、外でこんな言葉を使っていたら恥ずかしい、一体どんな教育をしているんだ、どんな躾をしているのだと思われることを恐れたのだと・・・思う。

今回の叱咤の言い訳は、「そんな風に外で言ったら友達がいなくなっちゃうよ」という理由をつけてのことだった。

自分の気持ちから発生した自分のための叱咤であった。

恐らく私自身が他動がないにせよ注意欠陥障害がある当事者でもある。

思い返せば、学校では他の生徒との違いに悩み、四苦八苦して、結局反抗的な態度になり周りを困らせてばかりいた。

なぜ人と同じ事ができないのか。したいことなのに、集中してできないのか。

人からの評価を得るために手軽なやり方ーーいわゆるグレ、みたいなものや異性を利用するようなやり方、サブカル的な斜に構えた知識の類い等ーーに溺れてもいったし、それは今も中々改善することができていない。

子供の気持ちが嫌と言うほど分かる反面、自分ではできたのにどうしてできないんだ、どうして私を困らせるんだ。という、やっぱり身勝手な怒りの感情に支配されてしまうことが多い。

アレントトレーニングに通い、ブログに向かって冷静に気持ちを整えて書いていくと子供のマズさより時分のマズさの方がよほど目に余ってしまう。

躾とスモールステップを実践するなどの取り組みとで悩んだり、子供と話をしてルールを決めたりするのももちろん大事なのだけれど自分自身の意識を変えていかないといけない、と気がつかされる。