痩せますか死にますか

自分を客観視するために書く。昔のこととかADHDの子供との生活のこととか。

ちょっとアレな人の行動心理

キチガイの行動原理は退屈だということ

ここのところ私生活で精神的にどんどん追い込まれていっていた。
追い込まれたというよりも、自分で自分を追い込んでいく。
それが私のキチガイ所以だということかなと、スカイプで人生相談を聞いてもらいながらそう結論づけた。
生きる上で必要な退路までも絶って、死にます!私は死にますよ!と声高に叫び続けるような生き方をしてきたのかも知れない。

メンヘラというネットの手垢のついた言葉では私の攻撃性とかは表しきれない気がするので
もっと薄汚れたキチガイという言葉の方がしっくりくるような気がしてね。

性病三冠王はまぁ笑えるけど、精神病三冠王、そこに依存症という面倒なものが加わってそれが私を突き動かす原理になっていたし、突き動かされている。
生きているよ、でも死ぬよ死ぬよ終わりにしたいよ。とそこに幸せを求める行動原理が加わることはどうしてもなかった。

そんな私にも家族というものがあって、守っていきたいなとか思ったときに強烈な葛藤精神的な刺激を渇望する欲望と対峙することになった。
願わくば、まっとうに生きてほしい、自信をもって生きてほしい。そう生きていけるように道をつけていきたい。
私の願いと渇望は真っ向から拮抗していく。
それでも、いつしか発生し培われた思考から行動までの慣性は私の願いを遠ざけ黒いシミをてん、てん、と彩りを汚していく。
自分の願いを汚し自分の耳を思考を塞いでいく渇望の慣性は一人で飼慣らすことは不可能、だったみたいだ。

いつものように私は退路を断ちながら追い込んでいき更に人にけんかを売り私を攻撃させる。
けんかを買ってくれる人を捜し当てて挑発し殴らせては「ほらあんたも裏切るんだね」と責め立てる。
これをキチガイと言わずなんというのか。

悲しいのは、これを私が望んでもとい渇望してしまっていることだ。
それが悲しいことだと気がついてしまった。それでも慣性は止まってくれない。
その対立を自分の肌で感じボタンを掛け違え狂っていく状況を止めたいと思ったときにここ数日で何度か崩壊した。
望むことと言動がまったく一致しない。

何とかしたくてもがけばもがけばもがくほどズブズブと沈んでいく。
嫌だと、沈むのは嫌だ思いながら救われない手を握る。
這い上がる力がないのではなく這い上がることの意味、その理解を渇望が拒否させる。

願いを引き寄せると願いの扱い方が分からなかった。
そういうものを私は知らなかった。
明るい未来は壊すモノだと思っていた。その方が渇望が満たされるからだ。
安い絶望で安心するんだ。ああほら、やっぱりね。とがっかりすることで安心する。

本当に常識を知らないんだねと言われたことで私は「ああやっぱりね」とどこかで安心した。
浅ましさとか怒りとか悲しみの奥にあったところまで見るのは面倒で、いってしまえば私という生き物に何も興味がなかったんだな、ということを教えてもらった気がした。
そうだよね、って。

そうやって安い絶望を自分で拾い集めては退屈をしのいでなんとかどうにか生きてきて
多分何かに心からすがるとか信じるとかはできないから、誤魔化しながら生きて死んでいくのかな、とか思った。
落ち込んでる時に書いたものを載せてみる。
希望に向かうことを諦めないことは勇気の必要なことだと思う。