痩せますか死にますか

自分を客観視するために書く。昔のこととかADHDの子供との生活のこととか。

『発達障害の子供への声かけ表』について思うこと

発達障害児への声かけ表がネットで話題になってました。

『発達障害の子供への声かけ表』がいろんな相手に役立つと人気! | BuZZNews(バズニュース) 世界の話題をあなたに!

 

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これはあくまで「導入部分」だと思っています。

親側の意識を変えるきっかけとしてはとても優れた表だな、とも。

 

アレントトレーニングを受けて2回。

やはり目下の子供に対する目標は「如何に子供の自尊心を育てるか」なんですが、もっとかみ砕いて言うと「叱らないで済むようにしていくこと」が最も大切なことなのだといつも言われる

親の自分自身の自己評価が低かったり周りの子供とはどうしても違うんだし、ちゃんとしてくれないと困る・・・。現状と理想はそうかみ合ってはくれない。

自分だけで生きているわけではないですから、ね。

 

そしていつも悩んでいる躾の部分で、一つの指標になるのではないか、と思ったブログ記事を見つけた。

 

とりあえず俺と踊ろう: 修学旅行生、被爆者に「死に損ない」 大切なことを伝えきれない大人たち

 

 

被爆者の方の講演中、「死に損ない」などというヤジが生徒から飛んだ。

しかし学校側は生徒をその場から退出されるなどの措置を取らず、一方的に被爆者の方々を傷つけるという形で終わった。

事の顛末についての詳しいことはリンク記事を参照していただければと思う。

その中で躾に関して気がつかされた事があった。それについて書いていく。

体罰は無益であり、教育効果はないと主張する人たちは多い。また、体罰は法律で禁止されていると法を根拠にする人もいる。

確かにそれはその通りだと思うし、教師や大人が子どもたちに自ら法を守る姿勢を見せることは大事だ。しかしそれ以上に、
「法に書いていなくても犯してはいけないことがある」
ということを教えるほうがもっと大切ではなかろうか。

 

 

 この、法には書いていないけれど、ということこがぐっと心にとどまった。

人としての尊厳、守らなくてはいけないもの。倫理観。

これをどう、家庭から子供に伝えていくべきなのかと考えるきっかけになった。

 

とりあえず俺と踊ろう: 修学旅行生、被爆者に「死に損ない」 体罰禁止はやはりおかしい

 

体罰礼讃主義と思われそうだが、俺は決して体罰推進派ではない。俺自身がとんでもない体罰の被害者でもある。毎朝テストがあって80点未満ならビンタ、そういう学校なんてそう多くないはずだ。柔道の授業で、無言で近寄ってきた教師からいきなり股間を蹴りあげられる学校もそうそうないはずだ、しかも蹴った後に教師が述べた理由が「柔道着の中にTシャツを着るな」である(これは俺自身ではなく目の前で友人が受けた体罰だが)。高校の3年間、体罰が皆無だった日は一日たりともなかった。こういう体罰を受けてきた身として、体罰はむしろ大反対ですらある。
 
それでも、俺は「法律によって体罰を絶対的に禁止すること」には断固として反対だ。
「何をしても言っても叩かれない」
そこから生まれるのは、安心感でも信頼感でもない。できあがるのは、弛緩した空気、緊張感の欠如である。反抗期という大切な時期に、暖簾に腕押しのような大人に囲まれた子どもたちは、何がどこまで許されるのか、「ここから先はヤバい」というラインがどこにあるのか、そういうことを見極めることができないまま大人になっていく。誰かを傷つければ、そのしっぺ返しを食らうということを知らないまま育つのは、周囲のみならず自分の身さえも危険にさらすことになる。少年法に守られている間だからこそ、法律には明示されていなくとも、社会に厳然としてある暗黙のルールを叩きこまないといけない。いや、叩き込んであげることが、その子の将来のためなのだ。

 

 まさに悩んでいるところの答えがここにあった、と思った。

かといって、もちろん感情にまかせルールから外れたら体罰をする、という短絡的なことではない。

ここから先は「ヤバイ」というのは、「絶対にやめさせなくてはいけないこと」=叱らなくてはいけないこと、というラインだ。

ADHDの場合、例えば犯罪であったり本人や友人の命に関わることに関しての叱り、ということが一般的に言われている「ヤバイ」ラインではある。

 

社会で生きていくための倫理観、というのは教養として身につけていかないといけない部分だ。

小学生に対して時期尚早?と思う部分もあるけれど、ワガママな部分がこうした倫理観について考えを放棄するようなことになってはいけないと感じる。

友達関係の中で育っていく部分もあるだろうけれど、どうやっても大人として教えていかなくてはならない、大人の役目を放棄してはならない部分があるんだな、としっかり心に刻まれる記事だった。

これは発達障害、定型発達に関わらずきちんと考え、色々な人と話し合うべき事柄なのだろうと思った。