痩せますか死にますか

自分を客観視するために書く。昔のこととかADHDの子供との生活のこととか。

本人と周囲の困り感と感じ方の違い

我慢したくてもできないという困り感

アスペだったりADHDだったりすると突然の出来事や環境の変化にとても弱い。とモノの本で読んだ。

確かに弱い。ほんとうに弱い。

普通の人が弱ると、シオシオ元気がなくなったり布団にこもりたくなったり人に会いたくなくなったりやる気が出なかったりと、言葉通り「弱って」いくので分かりやすいし共感もされやすい。

が、ADHDの場合は弱ると野生動物である。

暴言暴力オンパレード、我慢はどこ吹く風で、どちらかというと周りが困る。

(いや、フツーの大人がフツーに元気なくなっても周りが困るんだけどさ)

困るだけならいいけど周囲の人への怒りにつながってしまうんだな・・・。

そりゃワガママ通らないからって暴力振るってたらタダの困った人で近寄りたくなくなるからな。

苦手なことをしない(できない)のは、ハタから見ればただのワガママにしか映らないのだ。

が、そこでつまづいて困っているのはもちろん子供自身でもあったりする。

 

どの部分が苦手?

誰しも人は苦手なことがあると思う。

計算がてんでダメだったり会話をするのが苦手だったり運動が苦手だったり人それぞれではあるけれど、電卓使ってみたり初対面の人との会話が多い仕事は避けたり、何かしらの回避方法はあると思うし回避できるから社会生活が成り立っている。

けれどADHDの場合、生活に必要なコトすらも端折ってしまう傾向が強い。

面倒なことはトコトン回避する。あとで困るという見通しがつこうがつかまいが、とにかく嫌だ、という具合だ。

例えば風呂。たとえ股間が痒かろうと、全力で拒否する。他人が臭いと思うかどうか人にどう思われるか、その結果損をするか得をするかという先の見通しをつけることが一人ではどうにも難しい。

発達障害というけれど、まさにソレで、計算や言葉の応酬はものすごい反応の速さなのに見通しを立てる事ができないし、その必要性にピンとこない。

あまりにも発達がデコボコでアンバランスなのだ。

苦手、というか・・・定型発達であれば成長とともに一度教えれば分かることが、何度も何度も何度も訓練を重ねてやっとできるようになった・・・かな?という具合。

ここが理解できるまで、まるで宇宙人と生活してるような気分だった。本人も辛かろうが周りが辛い。周りも辛い。

(周囲は見通しが立つ分、余計に考えてそれこそシオシオシオ・・・となるんですよ。本人には伝わらない周囲の人間の「困り感」ってのも結構大きな問題だと思う。)

 

みんなで一緒に、の意味が分からないらしい

卒業シーズン入学シーズン、そして運動会が一番の苦手である。

「みんなで一緒に練習」「みんなで一緒にじっとしている」

コレが無理ゲーでしょ、ってくらいできない。

体育の時間に一列に並ぶことができないとか、普通の人から見れば「意味わからん」ってところができない・・・。

(コレは薬を服用し始めてからかなり改善された)

みんなで一緒にいる時に指示に従うということは、小児科の先生いわく、ライブハウスのようなクソうるさいところで指示を出されているようなものだよ。という状態だそうだ。他の子の衣擦れの音や他の教室の足音、道路の車の音、人の髪の毛のハネ、えりが曲がっていることや上履きの汚れ、なんでもかんでも気になってしまう。らしい。

(って書き出すとそりゃあ集中どころじゃないな、と思いはする。思いは。)

あと、従ったアトに何があるの?ないでしょ?じゃあいい面倒だし。という具合なのだ・・・。

その「なんで?」に答えて納得させられる人って多分いないと思う。感じ方が普通とは違うから、普通の感性で当たり前のことは当たり前ではないからだ。